otopa記

真実を探し求めて

年末年始の恵みと裁き

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昨年末、義母を見送りました。

今回は、その時に神様から受けた恵みと、私の少しの気の緩みから、サタンの激しい攻撃を受けてしまったこと。

 

その奥には罪があり、サタンを通して神様からの裁きを受けたお話です。

 

 

 

 

昨年11月のある日、義母はお昼頃に危篤状態になり病院から連絡がありました。

私が駆けつけた時点でも、すでに意識はなかったものの、夕方に家族全員が揃うまで、全力でその命の火を燃やし続け、待っていてくれました。

 

最後に夫が病室に着いて本当にまもなく、息を引き取りました。

 

 

両親(私の実父母)を看取ることができなくて、私たちはとても後悔していましたので、

神様の大きな愛と恩恵を感じずにはいられませんでした。

 

 

 

義母が出産したのは40代前半、当時は今よりもさらに超高齢出産と言われるような時代でした。様々な苦労をいつも明るく切り抜け、夫を愛情深く育ててくれたであろう義母。

 

義父が早くに亡くなってから、ひとり内職と家事をこなし育て上げました。

その後、孫に恵まれてからも手放しで喜び慈しんでくれました。

大往生と言われる95歳でその生涯を終えました。

 

 

私たち家族全員で看取り、感謝の言葉をかけて最後のお別れをすることができました。

棺には義母が好きだった沢山の花たちを街のお花屋さんで選んで、一緒に入れました。

(トップ画は、前日に撮ったバケツの中での待機写真です。)

 

郷里から離れて暮らしていますので、いったん読経などは行わず、家族だけで見送りました。

いわゆる直葬という最も簡素な形式です。

 

 

 

私としては、この後も納骨式だけにしたかったのですが、夫は悩んでいました。

考えた結果、やはりお寺との相談抜きに納骨式だけを申し込むことはできないとの結論に。

 

 

お寺と相談をすると、予想通り「葬儀の読経からやりましょう。」という話になりました。

 

そして年末に、郷里のお寺で、葬儀の読経と四十九日法要を、近親者で行いました。

 

 

 

私には今や、お寺もお坊さんも天敵です。常に神様に祈るつもりで、防衛体制を整えて臨みました。

「義母をどうかサタンからお護りください。」

「列席者皆がどうかサタンから守られますように。」と。

 

 

なぜなら、仏教は全て悪魔を拝む宗教だからです。

お経は確実に、うじゃうじゃと悪魔を呼び寄せます。

 

 ◯ 仏教の「お経」や「真言」が悪魔を召喚するための呪文であり、仏教が悪魔教であるという確たる証拠。

 

 

私が今回緊張していたのは、次のような経験があったためです。

すでに他界した私の実母の葬儀は、まだ信仰をもってすぐのことでした。

 

私たち親族は、泣き疲れたまま無防備で葬儀に臨み、神様への祈りも弱々しかったのでしょう。私も姉もしばらく心と体の具合がかなり悪くなってしまいました。

 

更に、父も全てが一段落した頃、母に続いて病に倒れ、半年後に亡くなってしまいました。

 

 

 

 

母の葬儀の時のようにならないようにと、父の葬儀の時には全力で神様に祈り続け、なんとか無事見送ることができました。

 

 

 

ところが、この今回の義母の四十九日の日です。

私は最初のうちは身構えて集中して祈っていました。しかし実家とは違う宗派の一連の流れに戸惑い、途中で集中力を切らしてしまったのです。

 

私たち家族が、お寺の本堂に入り席に着くと、早速お坊さんが現れて、大きな木魚と鐘を両手で打ち、流暢にお経を唱え始めます。

そこへ、ご高齢の尼さん(お坊さんの実母)がやってきて、おもむろに隣に座りました。

 

何か補助作業をするのだろうと、祈りながら見ていると、二本のバチを手に取り、目の前にある吊り下げ式の太鼓を両手で力いっぱい、リズミカルに打ち鳴らし始めたのです。

 

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お寺の法要で、まさかの祭り囃子レベルの派手なセッションが始まりました。

そこで私は思わず笑ってしまい、お祈りへの集中力が途切れたのです。

 

ここでまず最初の、隙を作ってしまいました。

 

 

 

さらに情けないことに、もっと油断させられたのは、これで終わったとホッとした途端、お茶の席に、何やら山盛りの白いものが、大きなお盆に乗せて運ばれてきました。

 

それは、「笠餅」と呼ばれる大量の小餅らしきものがお盆いっぱいに盛られたものと、笠をかぶった人の姿を模した平たいお餅でした。

(ラプト理論を学んでいながら、この時点で、気持ち悪いことに気づくべきでした。)

 

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四十九日法要での「笠餅」

 

仏教の宗派や地域によって、少しづつ作法が違うようなのですが、今回のこのお寺では一口大の小餅の上に、覆いかぶせる様に平たい人の形をしたお餅が、杖をついている格好で乗せられていました。

「お母さんの旅立ちのお姿です。」

「どうぞ、つきたてで柔らかい小餅ですからこのまま食べられますよ。」

「食べた部位と同じ、ご自分の体の悪い部分が治ります。人形のお餅の下になっている小餅を取ってお食べください。」

と尼さんが言いました。

 

その時、横にいた私の姉が「私、左肩が痛いからこの辺を!」と喜んで取りました。

私はまたも予想外の展開に、ぼんやりとしていて、話があまり頭に入って来ないまま、大量のつきたてのお餅に心惹かれ、尼さんから勧められるがままに、つい手を付けてしまいました。

 

正直なところ「あまり美味しくないな....。」と食べながら笠餅の説明の続きを聞いていました。そして次の瞬間、我にかえり大きな後悔をすることになります。

 

尼さんが「あ、そうそう、心臓の部分はお上人(しょうにん=お坊さん)が食べるので、残しておいてくださいね。」と笑顔で付け足しました。

 

家族一同「・・・・・・・・。」

 

 

◯ 日本は昔も今も悪魔教の国。

 

 

 

本当に今思い出しても、「狐か狸にバカされた」という感覚でした。

 

そうです。おそらく悪魔崇拝を模した儀式に参加してしまったのです。巧みに罪へと誘導されてしまいました。(お餅もわざわざ、お坊さんが形を作ったと言っていました。)

 

敵陣に乗り込んで、あちらの思惑通りサタンにダマされてしまうという愚を犯したのです。

 

いつも以上に神様に意識を向けるべき戦いの場にあって、嘲りと欲の罪で、サタンに簡単に意識を奪われてしまいました。

 

確たる信仰を持ったという自負、以前の弱い私ではないという高慢な気持ちが、あったのかもしれません。

 

その日、未明に刺すような喉の痛みがあり、薄い血痰が出ましたが、その後一眠りし喉が痛いなと思うくらいで問題なく列席したのですが、夜遅い時間になると頭や関節の痛みと悪寒がはじまりました。

 

その後39度以上の高熱に苦しみ、3日間は熱に浮かされ、いったん解熱したその後もまた高熱を出してぶり返し、一週間ほど解熱しませんでした。

 

喉にも相当な炎症を起こし、今振り返れば咳が収まり、元の声が完全に出せるまでに、40日程かかりました。

 

しばらくは、祈りも深く入らない程、体が重く言うことをききませんでした。

 

 

とにかく、神様に謝って助けを乞いました。

熱に浮かされながら、声にならない声で自作の歌を泣きながら賛美していました。

どこから信仰がズレてしまったのか、思い返しました。

 

 

忙しさにかまけて、毎日自分では「やったつもり」でいました。罪も「悔い改めたつもり」でいました。「いつかは、変われるだろう。」という甘い考えでいたのです。

 

「同じ次元に留まり、成長出来なければ堕落だ。」と、みことばでは学んでいました。それなのに、少しずつ自分の基準で、自分を甘やかしたままでいました。

 

お寺で犯した愚なる行いは、いつも100%神様に意識を向けられていないことが、露わになりました。

 

 

賛美歌の曲自体は完成していたものの、その後の毎日練習している歌の録音は夏から山あり谷ありで停滞していました。

 

年が明け、ちゃんとした声がひと月出なくなって、「やっぱり、私の道ではないか。」と心底がっかりしました。

 

 

 

そんな時、過去の朝会を復習していると今の私に、刺さる御言葉が山のようにありました。

 

中でもraptさんのお祈りでの根本的なお考えに衝撃を受け、感動しました。

涙が止まりませんでした。

 

raptさんは、「明け方のお祈りで、毎日ご自身のお考えを全て捨てる。」のだとおっしゃいました。

私には見えないほど、遥か彼方の高い次元にある方がです。

前日に受けてくださった御言葉さえも、一旦リセットされるのだと。

 

どれほど、謙遜な方なのでしょう。

 

 

ならば、ただでさえ悟りの浅い私のようなものが、「やったつもり」では何の成長も無いのは当たり前です。罪や間違いをしっかりと毎日悔い改められなくなるのも、この高慢さから来ていました。恐ろしいことです。

 

昨日の私たちが成したこと、また逆に小さな罪や大きな罪も、全てリセットして空っぽにならなければ、日々めまぐるしく変化されている神様の心情やお考えを悟れなくなるのだと、教えてくださいました。

 

 

 

基本に立ち返り、御言葉の復習にさらに力を入れました。

ズレを修正するにはとても有効だと思います。

 

 

何をするにも「今日はこれくらいで。また明日。」というのではなく

「これまで越えられなかった自分を越えて行こう。」という決心をしました。

 

 

信仰生活に必要な項目と、自分の日々の仕事を書き出し、目標を決めて毎日できた度合いをチェックしています。「やったつもり」の回避です。

 

そうすると、「まんべんなく4本の柱を立てる信仰生活」が送れます。

頭の回転も体の動きも良くなり、全てが相乗効果によって、うまく回り始めます。

 

何かの作業に偏り始めると、時間を費やした分だけ結果を求めたくなります。

そして膨大な時間だけが過ぎ、自己嫌悪し疲弊してしまい、全てが空回りしてしまいます。

 

 

 

全ては何度も御言葉で語られています。

神様がraptさんを通して与えてくださる御言葉は本当に矛盾がなく、完全だということを実感せずにはいられません。

 

 

 

◯ 苦しみから逃れようとばかり考えるから苦しみから逃れられない。どんな苦しいときも、ただひたすら主を愛し、主を喜ばせようとしてこそ、主が苦しみから逃れられる道へと導いてくださる。

 

 

 

 

神様、どうか私たち兄弟姉妹が自分の限界を突破し、必ず大きく成長できますようにお導きください。

 

 

raptさんのように、全てを捨ててあなたを深く愛することができますように。