otopa記

真実を探し求めて

音をつむぐ喜びを

 

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私が幼いころ、私の母は独学で学んだギターやピアノをよく家で弾いていました。

 

 

そんな母に憧れて私もピアノを習いましたが、人前に出て演奏する発表会が本当に苦手でした。やがて練習さえも苦痛になり、小6でやめてしまいました。

 

中学生になると、これも姉に憧れて合唱部に入りました。

たくさんの声が一つに綺麗に重なる時の、うっとりする音の調和。

これが楽しくて、毎日喜んでキツめの練習にもついて行きました。

 

また合唱なら、一人で視線を受けなくて済むという居心地の良さに惹かれたのもありました。

声で音を作ることの楽しさを、毎日みっちり学びました。

 

 

 

しかし、合唱曲の歌詞は退廃的なものが多く、とても暗い気分にさせられます。

中学卒業と同時に合唱からは離れてしまいました。

 

 

 

 

時は流れ、会社の軽音部などを経て、幼稚園児たちの歌う聖歌に感動を受けて私自身がゴスペルに夢中になりました。

 

空いた時間を全てゴスペルの自主練に、費やしていた時期がありました。

 

今思えば、私の周りにいたほとんどのゴスペル好きは、信仰とは無縁のカッコいいブラックミュージックが入り口の人ばかり。または何となくキラキラしたい人なども。

 

私も含めて神様を知らない人たちで歌うので、なんとも中途半端な賛美でした。

たとえば、歌詞に出てくるダビデが誰かもわからずに、ノリノリで歌うのです。(笑)

 

さすがに私も聖書を学びたいと思い、幼稚園の聖書講座に出席しましたが、さっぱりわからず、そのままにしてしまいました。

 

それでも歌うと心洗われるような喜びがあり、嬉しくて熱心に練習していました。

英語の歌詞をまずは和訳して理解し、発音と音を耳コピし練習しました。

 

 

 

学んだり時には教えたり、10年あまりの月日が経ちラプトブログに出会いました。

その頃活動していた社会人バンドの人間関係にちょうど苦しくなっていました。

 

というのも、どのバンドも音作りではなく仲間作りが第一にあるようで、いつもそこに苦しみました。不倫の関係を持つ人たちも珍しいことではなく、心底うんざりしました。

 

しかし、賛美や音楽で伝道することが御心と思い込んでいた私は、細々とでもいいから、なんとか音楽活動を続けたいと願って、別のバンドを探し続けていました。

 

 

 

 

 

やがて、ラプトさんが伝えてくださる御言葉で、本当の罪を知り、善悪の基準が明確になり、私の持つ苦しさが正しい感覚だったのだとわかりました。

 

 

 また、「持っているものを一度捨てなさい。」という御言葉にも従いたくて、

 バンド探しはやめて、本当の御心がわかるまで、ひたすら信仰生活*に集中しようと決心しました。

◯神様を愛する資格があるのは誰か。本当の愛とは何か。なぜ主の前では多くのものを捨てなければならないのか。

 

 

無理に人とつながるのをやめて、ラプト理論と御言葉を学び、聖書を読み、神様への祈りの時間を持つことを、喜んで選びました。

 

ラプトさんを通して神様に感謝し学び、間違えてはやり直し、転んでは這い上がる日々。

その日常があるからこそ、生き生きとしたとした本物の賛美ができることを実感し、心から感謝しています。毎日たっぷりと賛美しました。

 

本物の賛美で得られる感動は、ハリボテ賛美の比ではありません。(笑)

 

神様を心から愛している気持ちを、素直に堂々と表現できるのも大きな喜びでした。

 

 

 

そんな中、ある転機が訪れました。

 

昨年の8月から、私も情報拡散を始めていました。

これまで、難しい話や残酷な事実を深く考えずに、やんわりと避けてきた私には、越えなければならない大きな山を迎えました。あまりにも不勉強だったことに情けなくなるほどでした。

 

それでも、神様が私たちに具体的な使命をくださったことに感動を受け、足りないながらも励みました。

 

「御言葉通り、とにかく神様に置いて行かれないように必死で付いて行こう。」

と決心し、あっという間に9ヶ月が過ぎた頃のこと。

 

このブログ内の記事「皇室も首相も李家の可能性 」の一部をラプトさんが朝会の中で、取り上げてくださった日のことです。

祈りの中で、深く神様に感謝して涙を流して喜んでいました。

 

 

その時に、聞いたことのないメロディと歌詞のイメージのワンフレーズ浮かびました。

♪ I lift up my hands 愛してる〜 ♪

 

「賛美歌の構想!?」と驚きました。

私の溢れ出た気持ちが、初めてメロディとリズムを持った瞬間でした。

 

 

私はピアノを中途半端にかじった程度で、楽器がほとんどできません。

歌詞を考えることはできても、作曲の知識もありませんでした。

嬉しかったのもつかの間、「これは大変なことになった。」と思いました。

 

それでも祈って努力を重ねれば、何年か後にはいいものが出来るかもしれないと思いました。

 

 

それから、祈りのたびに少しづつ曲の構想が浮かび、

浮かぶたびに携帯に録音して、譜面に起こします。

 

また私は楽器ができないので、ラプトさんが以前おっしゃっていたパソコンで音楽が作れるDTM(desktop music)を、Youtubeで調べて思考錯誤し始めました。

 

古びたマイクやヘッドホンを引っ張り出してきて、足りないものを買い足しました。

メロディからコードを決めて、iPad上に様々な楽器の音を重ねていきました。

 

アレンジも、なかなかイメージ通りにならず、あーでもない、こーでもないと苦戦していました。

 

歌もこれまではプロ歌手の歌を、ただコピーすれば良かったのですが、今回はお手本無しで歌わなければならず、なかなか思うようにはいきません。

 

ある日、ついに声が出なくなってしまいました。

 

 

 

 

作業にのめり込み3ヶ月、信仰生活が疎かになっていました。

神様は今年8月の御言葉で、気づかせてくださいました。

 

◯主に意識を向けていない時間は、自分の霊と主の霊がつながっておらず、主もその人を助けることができない。だから一日24時間、絶えず主を意識して生活できるように努めなさい。

私の悪い癖であり、欠点があらわになりました。

 

情報拡散の時にもやってしまいますが、必死で結果を出そうとするあまり、信仰生活を疎かにしてしまって、行き詰まる。

 

神様に祈らずに自分の力でやろうとする。

 

最初は「神様のために」とやり始めたのに、途中どこかで「自分のために」になってしまっていたのでしょう。

 

気づいたら、膨大な時間を費やしてしまっていて、睡眠時間もやりくりできず苦しむ。

もともとスローテンポの私が、サタンの罠にすっぽりとハマるわけです。

 

この間ブログの更新もままならず、書いては消し書いては消し、調べていることも時間ばかりが過ぎ、答えにたどり着くことが出来ませんでした。

 

何をやってもうまくいきませんでした。

 

霊が苦しんでいました。 

霊の救いと肉の救い。

 

 

 

 

神様に祈り、感謝し心から悔い改めました。

 

すべて神様と一緒に成すこと。

常に神様に意識を向けて愛で行う。

神様のために。

 

 

 

やがて声が回復し、アレンジの構想も少しずつ進みました。

 

本当にささやかな曲で神様には申し訳ないと思うのですが、賛美すると聖霊を受けられました。

 

いつかアップ出来るように、頑張って磨きをかけて行きます。

さらに高い目標は、ラプトブログで採用してもらえるような賛美歌を作ること。

 

 

神様は、音をつむぐ喜びを以前とは違う形で与えてくださいました。

これからも信仰生活と並行して、祈り伺いながら励んでいきます。

 自分の足りないところを認めて祈り求めていきます。

 

 

 

 

神様どうか、いつもあなたの御言葉を胸に抱いて、24時間を祈って感謝して生きられますように。

 

神様が喜んで使ってくださる者へと成長できますように。

 

 

 

たくさんの兄弟姉妹が神様のために、個性才能を開花できますように。

 

 

新たな兄弟姉妹が、神様と出会えますように。 

 

 

 

 

 

 

*信仰生活

(rapt blogでのキリスト教の教え)

 

●神様の定める信仰生活に必要な4つの柱

 

1. 明け方の祈り (感謝、悔い改め、願いなど)

2. 御言葉と聖書 ( 何度も読み返し学ぶ )

3. 神様を賛美  (賛美歌を歌う)

4. 伝道           (twitterやブログなどでの証など)