otopa記

真実を探し求めて

導かれた個性

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私の兄弟は 小さい頃から、絵を描くことや歌をうたうことを、ある者は喜んで、ある者は半ば強制的に練習させられていました。
 
また、本を読むことも漫画以外は買ってもらえたり、図書館や移動図書館にもよく絵本を借りに行きました。
 
私は、絵を描くことも歌をうたうことも好きだったのですが、なぜか人前(家族を含む)で歌をうたうことが好きではありませんでした。
 
 
 
 
 
古くは、私が1歳の時に歌った歌の録音も残っていたくらい幼い頃からの話です。
週末になると、家族全員が否応なしに歌を披露させられ、父が時折、それを嬉しそうに録音していました。
 
ある日、家庭用の小型カラオケ機が発売されるや否や、さっそく我が家にはナショナル(Panasonic)のおじさんが、得意気にそれを売りに来ました。
 
歌詞の書かれた絵本のような本の、ページの見開きもう一方のページに、レコードが張り付いていて、丸い円柱状の再生機を乗せると、カラオケがそこから聞こえてきます。
 
(パナピックという1970年代の家電です)

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小さなマイクをつないで、団塊の世代の父母の好きな懐メロを順番に披露するのが終わると、同じ曲を子供たちにも唄うよう促されます。
 
超がつくほど恥ずかしがりだった私は、その時間が、ものすごく苦痛だったのですが、歌をうたうことが好きだったのか、変な葛藤と戦いながら結局は歌っていました。
 
ラブソングの歌詞が恥ずかしかったのもありますが。
 
 
 
 
 
何年かすると、ナショナルのおじさんは、今度は点数の出るカラオケ機を売りに来ました。ハチトラと呼ばれた大きなカセット式のカラオケ機でした。父はこれにも食いつきました。
 
我が家のカラオケブームはさらに続きます。
 
思春期の反抗期のややこしい年頃の時代も、家族で点数を競い合い毎週のように歌いました。
 
母はその後カラオケの教室に通うようになり、ついには教えるようにもなりました。
 
次女と三女の私二人が、小中学校で合唱部に所属し、姉は幼稚園教諭になり子供達に歌も教えました。
 
私は社会人バンドに所属したり、ゴスペルを学ぶようになりました。
 
 
 
 
 
 
今年、父は病気で他界しました。(父との別れ)
とても頑固でワガママで、いつも命令ばかりで威圧的な父でした。
 
でも時に、私たち家族に楽しく暖かい時間を作ってくれていました。
 
 
 
 
 
このように昔を振り返ると、その時には理解できなかった父の思いや恩恵を、今は感じることができます。
 
嫌で仕方なかった家カラオケが、合唱、賛美へと導き、また唄うことの基礎と喜びを築いてくれました。
 
その後大人になってからは、ゴスペルに傾倒することで、世俗的な音楽に興味が無くなりました。(ゴスペルにもあちら側の意図があると思われますが。。)
 
神様の愛と、お導きを感じずにはいられません。
 
 神様が頑固な父を通して唄わせてくださったから唄えるようになり、自信がなく内気だった私が、人前に出て唄うことも可能になったのだと思います。
 
今は、ひたすらラプトさんのブログ上で発表されている賛美歌だけをひとり讃美していますが。
 
 
 
 
 
 
パナピックで繰り返し唄っていた歌は、まだ幼かった私は、意味をわからずに歌っていましたが、今振り返ると少しですが信仰について描写された歌詞も含んでいました。
 
なぜが好きで、楽しく歌った覚えがあります。
 
今でも歌詞を見れば唄えますが、その昔流行った歌謡曲にしては比較的美しく清楚な印象があります。
 
父の、首をかしげて気取ったような歌い方や、その時の空気を思い出します。
 
 
 
 
 
 「学生時代」
 
 
蔦の絡まるチャペルで
祈りを捧げた日
夢多かりしあの頃の
思い出を辿れば 
 
懐かしい友の顔が
ひとりひとり浮かぶ
重いカバンを抱えて
通ったあの道
 
秋の日の図書館の
ノートとインクのにおい
枯葉の散る窓辺
学生時代
 
 
 
賛美歌を唄いながら
清い死を夢見た
何の装いもせずに
口数も少なく
 
胸の中に秘めていた
恋への憧れは
いつも儚く敗れて
一人書いた日記
 
本棚に眼をやれば
あの頃読んだ小説
過ぎし日よ私の
学生時代
 
 
 
ローソクの灯に輝く
十字架を見つめて
白い指を組みながら
うつむいていた友
 
その美しい横顔
姉のように慕い
いつまでも変らずにと
願った幸せ
 
懐かしい日々は帰らず
素晴らしいあの頃
学生時代 
 
end
 
 
 
 
 
 
神様のお導きと大きな愛に、心から感謝します。
亡くなった父に、心から感謝します。