聖書には終わりの時について、書かれている箇所がいくつもあります。
終わりの時とは、神様が悪魔の支配を終わらせると、定めていらっしゃる時です。
それが今、まさにこの数年を指します。
ほとんどの人がこのような事実を話しても、信じるどころか、
「はいはい、神様ね、困った時はお願いするわ。笑」
「頭大丈夫かな?カルトにハマってるの?キモい。」
「そんなこと言ってるのは、クリスチャンだけだし、終末思想の時なんて
とっくに通り過ぎたんじゃなかった?今べつに平和だよ。 」
と、口に出さずとも心の中で考えます。
と云うよりも、話した相手の顔にデカデカと書いてあります。
それらの様な考えこそが、悪魔にダマされている世の中の、ニセの常識だったのですが。
〜〜** テモテへの手紙 二 3章1〜9節 **〜〜
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。
そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、 人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、
信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。彼女たちは罪に満ち、さまざまの情欲に駆り立てられており、
いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。
ヤンネとヤンブレ*がモーセに逆らったように、彼らも真理に逆らっています。
彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。
しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした。
( *ヤンネとヤンブレ とは、イスラエルの民をエジプトから救い出し、カナンをめざすモーセに逆らい、堕落に導いた悪人たちとされる説があります。旧約聖書には明確な記載がありません。)
これは、今の世の中をそっくりそのまま見ているかのような描写ですが、
約2千年前に生きた使徒パウロの手紙です。
モーセの生きた旧約時代、パウロの生きた新約時代、そして私たちの生きる今、成約時代に人類は同じ歴史を繰り返しているのですね。
それだけにとどまらず、ノアの時代や、アダムとエバなど、それ以前にも、人類は何度も何度も神様を悲しませてきました。
現在も特に、政財界の支配層、芸能界やカルトの世界(悪魔を崇拝する人々など)はこのままです。
けれど、普通に生きていると私たちも、この中の一部の罪やこれらに準ずる罪をを持ち合わせてしまってはいないでしょうか。
罪のある状態では、神様の祝福はありません。
だからこそ、真実を聖書から学び続けることを、ラプトさんは、強くおすすめされています。
そうすることで、神様の前で罪とは何か知り、私たちは、真の正しい道を選び成長することができます。
◯聖書を読めば有能になり、賢くなり、サタンにも勝利する。
聖書通読のハードルの高さの一つは、その難解さにあります。
そんな時にも、ラプトブログは、本当にわかりやすくガイドしてくれます。
私も、この御言葉無しには、通読はできませんでした。
こちらが、ラプトさんによる聖書の解き明かしと解説です。
神様の緻密さに感動します。
私の聖書通読は2年半を過ぎて、まだやっと三回目を終え、四回目に入ったところです。
聖書を通読しようと読み始めた頃、一回目は、遠い時代の遠い国の
半ファンタジーと知恵の書?くらいに捉えていました。
また、難解で読みづらくなかなか前に進みませんでした。
人が救われるために不可欠な、貴重な神様の愛の御言葉。
私たちが正しく生きるための、深い悟りを与えるたとえ話や史実だと理解しました。
誰が善良で誰が悪人なのか、わかって読めるようになりました。笑
そして今、三回目を終えての感想。
これはファンタジーなどでは決してなく、一部の支配層に隠されてきた真理であり、繰り返される人類の、つまり私たち自身の歴史と未来を描いた書物なのだと知り、感動するばかりでした。
そして時に涙が溢れるほど、私たちへの神様のひたむきな愛が、詰まっています。
私たち人間は、神様を心から愛することの喜びを悟れば必ず幸せになれます。
他に何も求めなくても。
これからも一生、私たちは聖書通読と御言葉で、神様の素晴らしさを深く探究し続けます。
ちなみに私は、追加で買った文庫本タイプの聖書を、持ち歩いています。
(ラプトさんオススメは新共同訳聖書です。私は持ち歩きに便利なので、新改訳ではありますが、文庫4冊組も合わせて読みます。両方使って、時々照らし合わせたりしています。)